ホーム| コンタクト| 管理者情報| datenschutz

スパニッシュギターとリュートのギャップは、今でも埋めることはできるでしょうか?

歴史的モデルの復元物とそれらの演奏スタイルに特化したリュート奏者は、撥弦楽器に多様性を与えましたが、またリュート奏者とギタリストの間に深い亀裂ももたらしました。現在のような深い亀裂は、過去数世紀にわたっては存在せず、私の考えではそれは不必要なことであり非生産的です。1しかし、18世紀を超えてその開発を継続し、19から20世紀の歴史において出現した技法と音の世界にアクセスする権利と手段をリュート奏者が否定する限り、それは克服することができません。

リュートの構築

ギタリストは、通例、ダブルコースで絶え間ない調弦が必要な華奢な弦楽器である歴史的リュートを手にしても、ほとんど何もできません。そして多くのリュート奏者は、ギターが鈍感でずっしりと重く、その寄せ集めのようなスタイルとレパートリーは、指と背中に途方もない負担しか与えないと感じます。

古楽器リュートの低い張力と歴史的な共鳴板構造は、パッサメッツォとガリアルダそしてブーレの演奏には理想的です。しかし、その時代物の衣装が冒すべからざる永遠の状態と宣言されるのならば、それは遅かれ早かれ、それが元あった場所、すなわち博物館のガラス製展示棚に戻されることでしょう。

リュートほどに適応性の高い楽器は、あまりありません。それは数世紀にわたってチューニングと張弦を変更させながら、基本的なアイデンティティは保ち続けてきました。リュートとリュート演奏は、時代の嗜好の変化を考慮していた間は、それらの活力を保つことができました。音楽語法の転換と、アンサンブル演奏の要求変化に答えることを放棄したときに、それらの活力は失われてしまったのです。

モーツァルト、シューベルト、そしてシューマンによるリュート曲がないのは、リュートの開発可能性の技術的枯渇というよりも、むしろ人間の先入観、あるいは寛容さのなさが招いた結果でしょう。楽器の演奏家と製作者が、中世、ルネサンス、そしてバロック期の多様な作風に適合できたのと同じように、音楽様式の変化の重大な局面において、もう少し運に恵まれていたならば、「クラッシック」リュートそして「現代」リュートが存在したことでしょう。

音楽史における真の眠れる美女であるリュートは、200年にわたる楽器の進化の間、ひっそりと横たわっていました。ピリオド演奏の王子様のキスで目覚めた美女は、時代物衣装で古代のダンスのステップを踏みながら、現代の音楽シーンを夢見心地で通り抜けていきますが、もう既に少し眠たげです。眠れる美女は、本当に目覚めることができるでしょうか?それは持ち衣装に加えて、その中でより自由に動くことができる現代風の普段着を提供し、美女がそれを着こなせるかどうか、新しいジャンルを受け入れて古い活力を取り戻せるかどうか、にかかっています。

20世紀の幅広い音楽愛好者にリュート音楽を成功裏に媒介したのが、古楽器の擁護者ではなく、ジュリアン・ブリームのようなギタリストであったことは啓発的です。これは演奏家としての彼の傑出した人格のみに帰すると、考えるべきではありません。彼には、19および20世紀のギターによる音の発見を、彼の活気ある色彩豊かなリュート演奏に注ぎ込むために、歴史的楽器の構造と張弦からの逸脱を受け入れる意識的な用意をしたのです。

それ以来、歴史的リュートの演奏家は、その音楽がかつてどのように聞こえたのかという、由緒正しい印象を私たちに与えたかもしれません。その中の偉大な音楽人は、彼らのその楽器を演奏する上で、非凡なレベルを達成しました。それにもかかわらず、かつて19世紀への代わり目に既に絶滅していた乾いた音色が、幅広い観客の心を再び掴むことは、豊かな抑揚があるギターの音色ほどには成功しなかったように思えます。

リュートのレパートリーを習熟するためのすべての技術的要件を意のままにできるギタリストが、ピリオド機構およびその結びついた音の理想に固執するリュート世界の主張のためだけに、永遠に楽器を演奏できないとしたら、ますますをもって残念なことです。

現在、人口統計学的に「少数」であるリュート演奏家の小さな集団は、彼らのレパートリーを取り戻しました。しかし、その後、調度品付き大宮殿に復帰した没落貴族と似通った状況に直面しているのです。 社会情勢そして経済基盤の変化に対し、遺産が適切に維持されるためには、占有使用に固執しないことが大切です。しかし、彼らのマーケティング手段である、古楽器リュートは、維持費を保証するのに十分な数の一般市民が宝物を見に来るよう仕向けるのには力不足です。

リュート奏者がリュート音楽の唯一の代表者であるという主張は、リュート音楽はギターで演奏した方が音が良いからリュートは要らないと言った、アンドレ・セゴビア(1893~1987年)の見解と同じくらい不合理です。様々なタイプの歴史的リュートと対等に演奏するために、ルネサンスギターやバロックギターへの回帰をギタリストに要求することは無理な話ですから、18世紀以来立ち往生しているリュートをギターと対等の位置に持ってきて、2つの楽器をまた一緒に対話させる方がより理にかなっています。

2つの楽器の長所、ギターの暖かさと音色の豊かさ、そしてリュートの明瞭さと洗練さを新たな楽器に合体させ、双方の楽器の演奏者がその楽器に等しくアクセスでき、それがアンサンブルにも適していれば、どちらにとっても素晴らしいことです。

1 17世紀において、ギタリストはまた、テオルボ奏者またはリュート奏者であり得ました。例えばロベール・ド・ヴィゼーは、3種類の全ての楽器のために、同じ作品の編曲を提供しました。