古典的リュート、その芸術性の最後の偉業。それは、なおも発展しうる伝統の可能性を同時期の音楽に役立たせた、シルヴィウス・レオポルド・ヴァイス(1686~1750年)の才能によって可能になりました。しかしモーツァルトの音楽言語がもたらした挑戦に対し、レオポルドの息子、ヨハン・アドルフ・ファウスティヌス・ヴァイス(1740~1814年)は、早々にくじけて降参してしまいました。1 この見劣りのする後継ぎには、バイオリンを19世紀に発展させた貢献者であるニコラ・リュポ(1758~1824年)2と、ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティ(1755~1824年)3の創造力はありませんでした。
リュートの愛好者は、18世紀後半におけるリュートの急速な衰退を解明することなく、オーラで覆うことを好みます。しかし崩壊の種は、18世紀前半にすでに播かれていました。本質的に、同時代のリュートに対する正当な批判であった、ヨハン・マッテゾン(1681~1764年)の鋭い発言4 に対しては、(最終的に自らの楽器の終焉を回避できなかった)エルンスト・ゴットリープ・バロン(1696~1760年)による独りよがりな弁解よりも、もっと建設的な答えが必要でした。5
アルカンジェロ・コレッリ(1653~1713年)のオーケストラスタイルに触発された、シルヴィウス・レオポルド・ヴァイスによるリュートのためのソナタは、バロックリュートの演奏技法にこの上なく適しています。しかし音質の観点からは、偉大な後期の作品の多くは、すでに楽器の性能の枠を超えていました。この認識から、ヴァイスと彼の追随者らは、強力であるよりも甘い音を出し、17世紀のフランスで最も好まれた、狭くて深い丸みを帯びたリュートの形状を却下したのです。彼らは、イタリアのアーチリュートで確立されたような、幅広く浅いボディののリュートモデルを好みました。これはバロック期の擦弦楽器に引けを取らない、張力の高い弦を爪で演奏する楽器でした。6 このボディの改造は、低い張力と二重コースのニ短調リュートにも確かに一時的救済をもたらしましたが、18世紀の終わりを切り抜けて、新興のスタイル変化と歩調を合わせるのには十分ではありませんでした。7 張弦と演奏技法の改革と並んで、共鳴板の構造に、バイオリンで起きたのとまったく同じような変化が必要だったのです。
例えばヨアキム・ベルンハルト・ハーゲン(1720~1787年)8 による作品のような、18世紀における最後の重要なリュート曲を聴くと、これらの分厚いオクターブ低音弦の硬く、仰々しい音色が時代のスタイルとあまり良くなじまず、それらがより軽くより滑らかで柔軟性のあるもので置き換えられるべきだという感覚を得ます。しかし高音部では、熟練した弾き手のバロックリュートが奏でる音よりも、さらに暖かく丸みを帯びた、より長く歌い保持される音色が望ましいかもしれません。
ギタリストは、リュートの音を「単調」で、官能的でなく、場合によってはかなり退屈だとさえ描写したがります。彼らは、特に20分を超えるS.L.ヴァイスのパルティータのような長時間作品では、歴史的構造のいかなるリュートが表現し得るよりも、さらに明確な動力学と音質のコントラストを期待するのです。
かつてのリスナーもまた、明らかに多様性に対する欲求を感じていました。旧時代のリュートの大家は、華やかな即興の装飾音、メゾフォルテとピアノの間の微妙な揺らぎ、そして無数の表現方法の改良によって、彼らの演奏を活気づけることで、この要求を満たそうとしました。現在、私たちの耳には聞き慣れた音色の変化も、弦の低い張力、ダブルコース、そしてブリッジに手を固定する演奏スタイルでは、不可能でした。当時は認められ受け入れられたこれらの制限内での大家による演奏は、途方もなく魅惑的だったことでしょう。私は、特にバロックリュートでは、依然として洗練の可能性が創造的に再発見されることを待っていると考えます。
父親の作品を最大の完成度で演奏し、ドレスデンで1814年に死去したヨハン・アドルフ・ファウスティヌス・ヴァイスは、見かけは些細なたった6弦の楽器が、マウロ・ジュリアーニ(1781~1829年)のような名演奏家の手の中では、オーケストラ全体の音色の範囲を模写できるばかりでなく、多弦楽器のリュートがかつて成し得たよりも、さらにより甘くより歌う音色を生み出すのを見て、衝撃を受けました。
この小さな19世紀ビーダーマイヤー期または「初期ロマン派」ギターは、リュート族が残した空席を埋め、莫大な音楽的遺産を継承することに部分的のみ成功しましたが、それにもかかわらず、それは同時に公衆が撥弦楽器に期待する音のアイデアを大いに転換させることになったのです。
ギターにより良く歌う音色を与えたのは、そのボディ形状ではありませんでした。その高音弦上の改善された音の保持は、単に「駆動領域」(音楕円)の拡大によって、9 換言すれば、共鳴板のバーブレーシングシステムの修正を通じて達成されました。しかしギターの新しい低音弦(AおよびEに調弦される)は、ボディ内の空気体積不足のために特定の下支えが欠けていました。
バロックリュートのデスカント弦の痩せた音色に戻ることは誰も望みませんが、古楽器リュートのボディ内の空気共鳴の潜在的な優位性は明らかでした。これがマンドーラが、リュート族の中で唯一ギターと競合し、19世紀の始めまで一定の関心を享受した理由でした。10
双方の楽器の利点と欠点の観点から、リュートボディ内の優れた空気共鳴の長所と、クラシックギターのより暖かな歌うデスカントを組み合わせる可能性は、リウトフォルテが出現する200年も前に、既に考えられていたのです。
1806年に出版された「Grosse Sonata op.7 für Guitarre allein」の序文で、ウィーンのギター作曲家シモン・モリトール (1766~1848年)は、最良の解決策は、「マンドーラまたはリュート様の完全に丸みを帯びたボディ」をギターを提供することであると主張していました。
当時の美的感覚を完璧に映す音の器に楽器を転換する方法を把握して、新しい 演奏家世代を鼓舞できた、門外漢のアントニオ・デ・トレスのたぐいまれな能力がなかったならば、ギター熱が冷めた1830年前後に、初期ロマン派ギターは、多かれ少なかれリュートのように最終的結末を迎えていたことでしょう。
1 父親シルヴィウス・レオポルトの役職を継いだ J.A.F.ヴァイスは、「歴史的演奏慣行」の先駆者と見なせるのかもしれません。彼はモーツァルトの死とシューマンの生誕の間を埋めて、メクレンブルクの王女様たちに父親の作品を演奏し、雇い主に昇給を陳情する手紙を書きました。
2 「フランスのストラディバリウス」として知られている、重要なバイオリン製作者。
3 その作品として29のバイオリン協奏曲がある、作曲家およびバイオリン名演奏家。ヴィオッティは改変に着手するようにリュポを触発し、それはバイオリンの音量増大をもたらしました。
4 J.マッテゾン: Das neu-eröffnete Orchestre, ハンブルク 1713年, 274~279頁。
5 E.G.バロン: Historisch=Theoretisch und Practische Untersuchung des Instruments der Lauten...,ニュルンベルク 1727年。(リュート楽器の歴史的理論的研究)
6 バロンの論文は、18世紀当初に最も高く評価されたリュートの形状の詳細を述べています。『..平らで、リブが幅広く、楕円形で、音を遠方にまで伝えられる。』著者はおそらくここで、ベネチアとパドヴァのリュート製作において、すでに1600年前後に採用され、その音響的帰結の観点からクレモナにおけるバイオリン製作が予期された「ローマ式テオルボ」またはキタローネに由来する特定の扁平なボディ形状がリュートにも使われたと述べています。この種の楽器は、アーチの高いバイオリンと比較的扁平なバイオリンの違いと同様に、深く丸みを帯びたボデがあるものとは異なっています。ある意味、それぞれ甘い音色と、強力で輝かしい音色をもたらすこれらの2つの基本的種類は、フランドル様式およびイタリア様式チェンバロにも当てはまります。
7 私の知る限りでは、リュート独奏の入った18世紀前半からのアンサンブル作品で、擦弦楽器が全体を通じて音を弱めて演奏されないものはありませんでしたニ短調リュート発祥の地であるフランスでは、17世紀全体を通じてこの楽器を使ったいかなるアンサンブル曲も書かれず、室内楽の役目は単弦楽器のテオルボに託されたのです。18世紀の始めには、事実上、フランスの音楽でリュートは演奏されなくなってしまいました。
8 ハーゲンの作品については、ロバート・バルトの優れた録音があります。(NAXOS 8.554200)
9 駆動領域または音楕円と言う用語は、楽器の底面端と第1バーの間の共鳴板(または響版)パーツを意味します。
10 マンドーラは、ギター調弦された6から9コースの18世紀に流行したリュート楽器です。19世紀の始めには、6弦ギターの圧力に応えて、マンドーラ演奏家によっては、楽器を単弦に張り替えることもありました。